高橋是清の生い立ちと経歴は?

2.26事件で殺害された政治家として知られている高橋是清氏は、82歳で幕を閉じるまで、波乱万丈な人生を送ってきた人物です。
幼少時代についてはあまり多くは語られていないものの、大学在学中に留学したアメリカでは、手違いによって奴隷として売られてしまうという経験をしています。
語学を学ぶはずだったのに、奴隷としてキツイ労働を強いられることになってしまいましたが、高橋是清氏はこの経験をバネとして高い語学力を身につけることに成功しました。
日本に帰国してからは英語教師として活動した後、農商務省に入省して政治の世界へと足を踏み入れました。

高橋是清氏は好奇心が旺盛な人物で、南米のペルーに渡って銀山開発に携わった経験もあります。
この時に多額の借金を負う結果となり、信用してはいけない山師だと認識されていた時期もあったようです。
その後、政界に進出してからは日露戦争においては外債募集をするなど、新しいことにも果敢に挑戦し後世に大きな影響を与えたのです。

「財政の天才」と呼ばれた男

高橋是清氏は、「財政の天才」というニックネームに相応しい数々の偉業を成し遂げました。
世界恐慌の影響で日本が大不況に陥った時には、金の輸出を禁止したり、紙幣と金貨との交換も禁止としました。
これによって円安を導いて輸出を増やすことに成功しました。

また、日本で初めて赤字国債を発行したのも高橋是清氏です。
財源確保のために行われた財政政策の一つで、当時は従来の発想から大きく外れるということで周囲からは猛反対を受けましたが、結果的に経済危機を救ったという大きな功績を残すことができました。
従来の慣習や価値観にとらわれることなく、彼のように斬新な発想によって財政を立て直すことは、現在のに日本社会においても受け継がれています。

大蔵大臣(現財務大臣)としてリーダーシップをとる

高橋是清氏が大蔵大臣に就任したのは、1回だけではなく、なんと7回です。
最後の就任は1934年11月で、岡田内閣の時に高橋是清氏は81歳で超大物政治家として大蔵大臣へ就任しました。

大蔵大臣となった高橋是清氏は、積極的に財政の立て直しに乗り出しました。
彼が在任中に行った「金の輸出を禁止する」政策は、世界恐慌から素早い脱出を遂げた例として、現在でも世界中から高く評価されています。

世界恐慌から脱出したところまでは良かったのですが、その後、彼は公債の漸減という方針を打ち出し軍事費の縮小を始めました。
軍艦の多国間交渉を行い、職業としての軍人たちは職を失ってしまう事態になってしまったのです。
このことによって、当時の若手軍人たちは高橋是清氏を敵だとみなし始めたのです。
その後、1936年の2月26日に起こった軍事クーデターによって高橋是清氏は命を落としました。

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